2013年1月14日月曜日

成田山は大繁盛


1月4日、あることを確認したくて成田山新勝寺に参拝しました。
実家からJRで4駅ほど上ると成田駅。駅前から少し歩くと参道の入り口です。参道には鉄砲漬、新酒、お茶、生薬、鰻、羊羹など名産のお店が並ぶ。4日の昼ですが参拝客はまだまだ多く、ゆっくりと参道を進んでいきます。焦ることなく、ゆったりと人が移動中しているのは、正月で皆心にゆとりがあるからでしょうか。
仁王門  「魚がし」と書かれた大提灯

なぜ成田山はこんなに繁盛しているのだろうか。最近気になったことです。東京を中心とする神社仏閣は江戸幕府設立当時に配置されたと思いますが、成田山新勝寺は江戸からは遠く離れているし、なにか特別な位置付けだった話は読んだことがありません。しかし正月の参拝客の統計では全国ベスト3に入るほどの人気ぶり。この理由を知りたかった。
私の仮説では成田山新勝寺は蝦夷・東北からの攻撃を防ぐ霊的防衛ラインを構成しているのではないかと疑ったのだが、一寸違ったようです。
新勝寺の建立は平安時代中期の平将門の乱に由来します。将門の鎮圧のため不動明王像を京都より戦場の地関東に運び将門の討伐を祈願しました。将門の乱後も東国鎮護として不動明王像は安置されました。これが新勝寺だそうです。まあ持って帰るのが面倒だったのではないかと思いますが。もしかすると呪いと封じ込めが狙いだったのかもしれません。しかし新勝寺と不動明王像は、その時点で役割を終えて寺は寂れ中央からは忘れさられました。次に登場するのは江戸時代です。
江戸時代、新勝寺は改装・修繕で400両ほどの多額の借金を抱えていたらしい。他の地方の仏閣寺院と同様に、秘蔵の仏像を期間限定で開示し拝観料を稼ぐ出開帳を行います。
新勝寺が素晴らしいのは、この時のマーケティングです。開帳に合わせ、同郷の役者 市川団十郎に不動明王を題材にした演目をやってもらったのです。今に例えるとテレビコマーシャルでしょう。これが大当たりし新勝寺はその後十二回も江戸で出開帳を成功させ、また市川団十郎は成田不動に帰依し「成田屋」を名乗ることになります。「いよっ!なりたや」。
新勝寺のマーケティングはターゲット顧客層の点でも成功しています。演劇を楽しみ役者のパトロンとなる商人を中心とした富裕層をがっちり獲得したのです。
講の人々を泊めた宿の名残り
出開帳の成功は更に成功を呼びこみます。伊勢参りなど幕府から許された旅行は数少ない娯楽のひとつですが、適度に遠い成田参りは手頃な小旅行先として庶民の間で大人気となりました。参拝は講(こう)と呼ばれるグループで行います。成田参りする講は一年間お金を貯めて旅行を楽しむ庶民のグループも多いのですが、前述の通り富裕層も目立ち寺院への奉納も多額になりました。成田新勝寺を歩いて回るといたるところに豪華な献納品を見つけることができます。
そうです。成田山新勝寺の成功は、他の神社仏閣との差別化戦略の成果でした。今も市川家とのつながりは続いており、また節分の時には大河ドラマの主役級が来るなど広告宣伝と話題づくりには余念がありません。下手な企業よりも、よほどマーケティングの事を理解しているのです。

ところで平将門の討伐が目的であった新勝寺には、神田明神の関係者は絶対に来ないそうです。神田明神は平将門を祭る神社ですから。