2013年2月3日日曜日

藤田嗣治の猫


藤田嗣治の絵には猫が付き物だ。自分の分身なのだろうか。「美術にぶるっ展(東京近代美術館)」で藤田嗣治の「自画像」を観る機会がありましたが、やはり猫が鎮座しています。自画像ですから自分は描かれています。なんだ、分身ではないのか。それとも、魂だけ猫になっているのか。そもそも、なぜ猫なのだろうか。

藤田嗣治の絵は日本画の技術と色彩を活かした真珠色の肌が特徴的で、裸婦がとても美しく映えます。西洋画の伝統的・宗教絵画的な技法では女性の肌は少し脂ぎっているように感じます。その一方で、ギリシャ彫刻の裸婦像は素材のせいでもあるが、冷たく静謐な肌で、これは好みだ(私の)。藤田嗣治の真珠の肌は、ギリシャ彫刻の神秘性に暖かさが加わりました。さらに猫が加わると動きが感じられるようになります。生命を持つものは動くもの。藤田の裸婦は美しいが「生きる女性」としては、なにか足りないと藤田は思ったのではないでしょうか。猫がそこに忍びよることで、裸婦は女性に成りえたと、うがった見方をしてみました。それにしても猫は羨ましい。

世界はわけてもわからない」とは、分子生物学者 福岡伸一さんの本です。分解し部品だけを見つめすぎると本質を見誤ることを説いております。誠にごもっともです。しかし、誤解も楽しからずやとの勢いで、「部品」からアートを眺めてみることにしました。題して「アートの部品シリーズ」。不定期に書いてみます。