2012年12月10日月曜日

豊田市美術館の一品

11月25日、豊田市美術館に行く。仕事の関係から豊田市とは縁もあり一度は訪問してみたかった。運良く豊田市の滞在と青木野枝「ふりそそぐものたち」展が重なり、思いきって足を伸ばしてみる。
名鉄豊田駅から約1km、七洲城趾に建築されている。名鉄豊田駅からの道のりは、特に並木道として整備されているわけでもなく、落ちぶれた感じの地方都市の風情。歩いていても全く気持ちよくない。美術館に向かう道で、こんなにワクワクしないのも久しぶり。小高い丘の上に美術館はあるのだが、その麓から美術館への道のりも、アスファルトの車道で、これまた味もそっけもない。それどころか少し危ないのではないかと思う。上り道の途中に小さな公園があり、良い感じのベンチがあるのが慰め。
美術館の入口は近代的オフィスな感じで、窓口もない。本当にこちらが表玄関なのだろうか。恐る恐る中に入ると、おっ、やっと美術館らしい静謐な感じがしてきた。心配したが、なんとか美術館に来たようだ。

ところで、豊田市美術館は、城跡側・庭側からみると、とても美しい建物なのだ。名のある建築家の作品ではないかと思う次第。建物の中はモダンアートしてます。

青木野枝 ふりそそぐものたち

名古屋市美術館との共同企画で、それぞれ別の作品が展示されている。青木野枝は、現代彫刻家で「鉄を媒介とした空間表現を特徴とする (Wikipedia)」そうだ。ワイヤ、鉄輪、鉄棒など様々な部品をジャングルジムやトンネル、かまくらのように組み上げ、空間を切り取り、閉じ込め、流れを作る。そこに大気が流れ、よどみ、雨が降り注ぎ、溜まる気配を表現していた。この手法は、一種の結界づくり、呪術、風水のようなものかも知れない。
展示点数は、10点程だろうか。一般の個展からすると少ないと思うが、個人的には、これぐらいの点数が嬉しい。これ以上だと疲れてしまう。
青木野枝と豊田市とはなにか関係があるのだろうか。青木野枝は東京出身だし、活動の中心も中部ではないようだが。
青木野枝の屋外作品が、佐久島に展示されているそうだ。暖かくなったら行ってみよう。

常設展
美術館の楽しみの一つは常設展だ。三部屋ほどが常設展示に当てられていた。二室は地元の工芸品作家の展示となっていたのは微笑ましい。柿を素材にした素朴な味わい。これはこれで良いのだが、もう少し美術としての革新性が欲しい。刺激がほしい。そのような作品は、豊田には生まれなかったのだろうか。
最後の一室は、著名な作家の買い漁りに見える。ジャコメティやマグリットなど好きな作家も1点づつ展示されており嬉しいのだが、こじんまりとした部屋に、日本画、海外作品、彫刻、年代もバラバラな作品が配置され解説もなし。常設展がこれでは、美術館のソフトウエア力が疑われる。所蔵品の量ではなく質や企画の問題だろう。
展示の中で、これは、と言う「お気に入り」を見つけた。
辻晋堂(つじしんどう)座像。石膏。
片膝をついて座る姿勢が、あられもなく恰好良い。重心を下にデフォルメした造形は、小さな胸よりも母性を深く感じる。現代彫刻の洗練さと土偶のような生命力とも兼ね備えた美しい作品だ。
これだけのために、また来ても良いかなと思い直す。

豊田市美術館は、結局バランスが悪いのではないだろうか。良いところがまだまだあるに違いないのだが、見つけきれない。庭も綺麗だし、お茶室もあるようなので、またゆっくりと尋ねてみたい。

2012年11月10日土曜日

W.S.Q

W.S.QはWorld Saxophone Quartet。4人のサックス奏者で構成されたジャズユニット。1980年ぐらいから活動しているらしい。リズムセクションがないため、ベースやドラムの代わりをソプラノ、アルト、テナー、バリトンサックスのいずれかがその役割を兼ねることが多い。フリージャズ スタイルのエモーショナルな演奏と奇妙なユニゾン、不協和音が時にヒステリックな緊張を、時に陶酔的なメロディーと盛り上がりを生み出し、そしてスイングが生まれる。私の大好きなジャズ・グループだ。
W.S.Qを知ったのは、大学生の頃、まだレコードが主流だった時代だ。当時、フュージョンと呼ばれる軽音楽なジャズが流行った。今は、フュージョンとは本当はどの様な音楽を示し、目指すものであったのかは分かっているつもりだが。渡辺貞夫はカリフォルニアシャワーをやり、スクエアがメイク・ミー・ア・スターで、デビューした頃、私はジャズを聴き始めた。カッコつけてジャズ喫茶に通うようになった。当時、福岡の天神にジャズ喫茶COMBOがあり、その暗い店で、まだ知識も足りずにリクエストもできないまま、鳴るがままのレコードに聞き耳を立てながら、一人で一時間ほど過ごしていた。暗いので本も読めない。時々 、鳴っているレコードが何かをカウンタ近くまで行って確かめるぐらいしか、動くことはなかったと思う。それとて、「何だ、こんなものも知らないのか」と思われないように、慎重に行動していた。つまり、突っ張っていたのだ。


そこでW.S.Qに出会う。サン・ダンス、その時の衝撃的な曲名。なぜ、そのようなフリージャズがかけられたのか、今でも不思議だ。COMBOは、当時のチャラい音楽はかけず、ビバップやハードバップが主流で、女人禁制のお硬いジャズ喫茶だ。フリージャズがかかったことなど一度もなかった。女性向きの小洒落たジャズ喫茶で「ジャレット」と言う名があったのを思い出した。もちろん、キース・ジャレットから取ったネーミングだろう。女性に縁がなかったので、一度もいかなかったが。話がそれた。サン・ダンスだ。私以外にも、数名ジャケットを確認しに席を立つ人がいた。出会いを感じると共に、自分に「見分ける力」が身についたことを実感した瞬間だった。

福岡天神のジャズ喫茶COMBOは、タモリもよく通った有名な店だったらしいが、数年前に閉店したそうだ。W.S.Qのアルバムは、iTunesで検索すると、13枚もある。どれも、1000-1500円と安い。1枚数千円するレコードを探し回った頃からすると、夢のような時代だ。3分の1ぐらいは既に持っているが、改めて買い直しても良いよな。

あの頃、音楽を聴くことは私にとっては儀式だった。一曲、一曲を部屋のリスニングボジションに座って、目を瞑って聴いていた。たくさんの情報を音楽から得ていた時代だった。W.S.QのiTunesコレクション・コンプリートを目指すにあたり、その姿勢を復活させたい。また真剣に音楽を聴いてみたい。音楽好きな人にとって、本当に良い時代が来たのだから。

2012年10月21日日曜日

偵察ヘリ OH-1 ニンジャに興奮



航空ショーで初めて軍用ヘリコプタをみました。兵器を称賛することは少し後ろめたいのですが、とにかく恰好良いのだ。最初に見たのは側面から。迷彩色が施された流線型フォルムは狼のようであり、禍々しさを感じます。正面からみると薄!。最初は一人乗りかと思いました。両翼にミサイルらしきものを二基づつ装備しており、自衛隊も攻撃ヘリを装備しているのだと、なんか感動してしまった。

この軍用ヘリの正式型番は、OH-1。川崎重工業製の偵察・軽攻撃ヘリコプタで、陸上自衛隊に34機配備されています。もっと配備する予定だったそうですが、値段が高くて(20億円ぐらい)計画は250機だったのに、途中で中止になったそうです。任務は敵陣へ侵入しての調査。発見された場合には敵を攻撃し隙をみて逃走するために偵察ヘリであるにもかかわらず、重火器を装備することが出来ます。ついた愛称が、”ニンジャ”。なるほどって感じです。
最初、一人乗りだと勘違いしたが、直列座席(タンデム)の二人乗りで、前の人が操縦、後部座席が偵察活動を行います。各種電子観測装備は機体の上部にあり、木陰に隠れ上からのぞき見る感じで観測するそうです。装備出来る武器は、空対空短距離ミサイル4基。敵ヘリコプタなどに発見追跡された場合を想定しています。手裏剣ですな。
隠密行動のための低空飛行を可能にする高機動性、静音性能、調査能力、発見された場合の生存率を上げるための薄型フォルムや反撃武器が凝縮された日本製の軍用ヘリコプタ、これが ”OH-1 ニンジャ” なのだ。

(細かい事は、ぜひ Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/OH-1 を見て欲しい。)

このOH-1は、日本の防衛システム上、どのような位置づけなのでしょうか。湾岸戦争で知った近代戦争のプロセスは、まず制空権を確保する行動からスタートする。トマホークなどによる相手の対空防衛システムの破壊、攻撃機による空対空戦、そして制空権を確保すると爆撃機による地上設備の破壊が始まる。そして陸上部隊が上陸を開始。
しかし、この作戦はその後のプロセスが問題になっている。制圧プロセスが未だクリーンではないのだ。古くて新しい問題、市街戦やテロ活動に対して、圧倒的な対策行動が未だ確立されていない。モビルスーツ、各種電子機器などを駆使したSFや漫画みたいな戦術は結構真剣に議論されているに違いない。

話がそれました。改めて「OH-1は日本の防衛システムの中でどのような役割を果たす予定なのだろうか」考えてみた。日本の仮想敵国の上陸部隊殲滅を図るための部隊戦力偵察が予定されている任務なのだろう。ある程度、上陸されることは前提なのか。アメリカ空軍の御陰で制空権は完全に敵国に掌握されないものの、海軍の展開は間に合わないため、仮想敵国の大量、広範囲の上陸行動を許すことになる。この場合、日本の陸上部隊は攻撃を受けずに陸上部隊を迎えることが出来る。陸上部隊の展開力・機動力、そして敵部隊武装の調査把握能力が重要だ。

  1. 遅れて展開されるアメリカ海軍による敵国ロジスティクスの破壊、
  2. (制空権は確保されているので)哨戒機による索敵、
  3. OH-1による敵部隊の把握と攻撃プランの策定、
  4. オスプレイによる陸上部隊のダイナミックな配置行動、

これが日本の防衛システムのプロセスではないだろうかと想像しています。

いや、決して戦争を賛美しているわけではないのですが、OH-1をみて少し興奮してしまったようです。戦争はないのが一番、備えあれば憂いなしですが、それとは別の次元で、そもそも戦争・紛争・暴動など起きないように活動してほしいものです。戦争はゲームだけでたくさん。

そう言えば、最近戦争ゲームは市街戦テーマのモノが多い気がします。それも現在の軍事課題が反映している結果なのでしょう。まさか、戦争ゲームでシミュレーションしたりしていないですよね。まさかね :-p

2012年10月8日月曜日

2050年の世界


人口ピラミッドシミュレータを見つけました。

http://populationpyramid.net/

国や地域を指定し、年度を選ぶと人口ピラミッドと1950-2100年の人口推移を表示してくれます。
以下の駄文は読まなくても良いので、ぜひシミュレータで遊んでみてほしい。とても興味深いから。


上図は、2050年の中国の人口ピラミッドをシミュレートしたものです。
2015年頃をピークに人口は静かに減少しはじめ、2050年は、13億。この時、世界の人口は93億なので中国人は14%、七人に一人は中国人。驚くべきは、年代別構成比。半分は50歳以上だ。日本や韓国(republic of korea)も同様に壮年と老人の国になっている。明らかに社会保障とか破綻しているでしょうね。

人口ピラミッド・シミュレータを頼りに、2050年の世界を想像してみた。2050年に特に意味はありません。ちょうど数字として切りが良かったからかな。なんとなく政策をこれから切り替えて反映できるかもしれないぎりぎりの線だという気がしただけです。

2050年の世界

世界の人口は、増え続け93億になっている。50億はアジアの人達、まさにアジアの世紀。13億の中国はピークを過ぎ、人口の中心は24億を占める南アジア。インド17億、インドネシア3億は40代を中心に、経済は成熟期を迎えている。世界を見渡すと、人口5億の南アメリカ諸国もピークだ。南アジア、南アメリカが世界の工場と呼ばれている。
中国・タイ・日本・韓国は老化が進んでいる。中国は一部富裕層の海外移民も起きている。旺盛な消費を支えるため、地下資源の輸出が頼りであり、資源確保のため周辺地区への圧力も厳しく、軍拡は止まらない。
意外な事だが、4億の民アメリカの人口構成は大きく崩れておらず、静かに人口の増加を続けている。移民と文化と経済の実験場として、自らに刺激を与え続け、変貌させ続ける若々しさが、アメリカにはあるようだ。
7億のヨーロッパは人口構成こそ一時期の異常さを脱したものの、人口は横ばいを続けている。金融センターとしての地位は、まだこの地に存在するのだろうか。
アフリカ22億の人口は、まだ急激に伸びている。世界の労働力を支えるのは、この地域だ。世界の各地へ若々しい労働力を派遣している。

日本は、かなりハイブリットな状況だ。2010年頃より、恐る恐る続けてきた海外労働者受け入れ施策やバブル当時からの民間努力もあり、ずいぶんと外国人が国内に目立つようになった。まだ労働ビザでの入国が多いが最近は国籍を取得する人達も多くなっている。アメリカ好きの日本は、少しづつアメリカ移民政策を自分流に取り入れてきているようだが、人口構成の劣化の修正には、まだまだ遠い。
世界は主役を交代させながら、グローバル化による摩擦を生み出しながら、2100年の100億に向かって人口を増やし続けている。

随分と想像を逞しくしてみたつもりだけど、やっぱりピンと来ませんね。しかし、人口推定は戦争や大規模な疫病がないかぎり、必ず当たる予測で、様々なマーケティング、経済予測、社会学の基礎になっています。全ての政策の背景が人口推定にあるといても、過言ではない。これからも、何度も何度も見る機会がある、いや使う必要がある重要なシミュレータですよ。

2012年9月29日土曜日

Googleのコア・コンピタンス

一般には検索エンジンがGoogleのコア・コンピタンスだと言われています。
検索エンジンを軸に広告収入を得る。モバイルOSを只で普及させるのも、検索エンジンを特定し、結果広告収入を独占するため。ブラウザもそうだ。
だが、ちょっと関節技すぎないだろうか? 現実を説明するために「風が吹けば、桶屋が儲かる」みたいな説明を聞いているような気がします。
最近のGoogle関連で気になる記事が三つ。

眼鏡も自動車も広告収入からは程遠いように見えるし、また即効性のあるビジネスになるとも思えません。しかしビジネスモデルの視点を外してみると、Googleらしさが見えてきます。永遠のベータ版しか作成しないと皮肉られるgoogleの行動が、実はなにを生み出しているのでしょうか。

MAP、グラス、自走式自動車、これらは難しい技術です。具体的にどの辺りが難しいかと言うと、それは経験値が大量に必要だと言うことです。アプリケーションソフトウエアは、総じて目的が決まっており、利用のされ方は意外と固定されています。逆に言うと、目的あるいはユースケースを特定してから、アプリケーションソフトウエアを作成するのが、普通のシステム開発です。ところが、地図もグラスも自動車も、現在は利用方法や利用範囲がメチャメチャ広く、また日々増えていきます。それぞれの利用の組み合わせも考えるとシステムがカバーすべき範囲は恐ろしく膨大だと言えるでしょう。したがって、その完成には膨大な量の利用例が必要で、また整合性を保つ必要があります。
つまり、強大なユースケースのデータベースが必要です。作成には長期間の実験も必要で、それを蓄積し整理するノウハウも持っていなければなりません。googleの検索エンジンは、そのような長い間の実験の結果得たランキング技術が製品化され、広告収入となった例です。
現在進行中の眼鏡や自動車の実験の行き着く先は、広告収入ではないでしょう。恐らくGoogleも知らないのでは。ただ、ただ、膨大かつ有用なユースケースデータベースが出来ることこそ重要だと考えいるにちがいありません。このデータベースは、他社に対する大きなアドバンテージです。時間的に全く追いつけません。Appleが失敗したのも無理がないことです。Appleは勘違いしているのです。MAPは技術と地図情報を手に入れれば、すぐに実現できるのだと。不足しているのは、ユースケースデータベースです。これは暫く追いつけない。Googleのコア・コンピタンスは、ユースケースデータベースを作り上げる力です。この力は、大きく、長く、金を生み続けると言うことを検索エンジンビジネスから成功体験としてgoogleは身についているのでしょう。コア・コンピタンスと呼んで良いのでは。
* * * * * *

昨夜(2012/9/28)、Appleのティム・クックCEOがMAPアプリについて謝罪をしたのですが、そのなかで面白い発言があった。「たくさんの人がMAPアプリにアクセスしてくれた事に感謝しています。これでより良い製品に改善することができます」と言ったのだ。気づいたのだろうか。良いMAPアプリを作るには、ユースケースを大量に手に入れる必要があるということに。

画像はセントレア国際空港付近をApple Mapアプリで検索した結果です。フィリピン海に浮かぶセントレア島の入口には、謎の韓国名の橋がかかり、ダイセーエブリー24と言うアイドル団体か宗教団体の事務所があるようです :-p

2012年9月16日日曜日

あくまき


「あくまき」は宮崎県のソウルフードです。

南国物産展を見物していると「あくまき」をみつけました。¥420円(+ 専用のきなこ100円)。早速購入です。

「あくまき」は、竹の皮に包まれたアメ色の羊羹への成りかけみたいなモチみたいな食べ物です。食べやすい大きさに糸で切り、きなこをタップリとかけていただきます。その味は、思いの外甘く、触感もしっかりしており、エグさやクセはありません。その製法は、灰汁(アク)を十分に吸い込んだモチ米を竹の皮に包み、お湯にいれ煮込むのだそうです。

小学生の頃、福岡に住んでいたのですが、夏休みのたびに母方の両親が住む宮崎県飫肥に遊びにいきました。必ず、食べたのが「あくまき」です。あく(灰汁)で巻くから、あくまきなのだろうと思います。それは特別な食べ物でした。時々お客様が持ってきてくれるケーキみたいな幸運で、高価で、高貴なものと子供心に感じていました。でも、じいちゃんの家だけではなく、他の親戚の家にもありました。もしかすると、あの頃は未だ自家製だったのではなかったかと想像しています。正月になると各家が餅を突くように、宮崎ではあくまきを各家で作っていたのではないでしょうか。

いつの頃からか、あくまきを食べることはなくなりました。嫌いになったのか、出されることがなくなったのか、幼い頃の記憶では、ばあちゃんに「あくまきはないのか」と尋ねた思い出が残っています。返事がなんだったのか、覚えていません。

そして今日、久しぶりにあくまきを食べる機会を得ました。食べることが出来たことが大変うれしいです。もっと美味しいものはたくさん世の中にありますが、思い出が詰まっている食べ物は、そう多くはありません。もう絶滅してしまったかな、と思っていた「あくまき」を、また食べることが出来て幸せです。

2012年8月26日日曜日

構造が違うよ

ヴェリタス 2012.8.5 記事「英国 EU離脱論が消えないワケ」を読んだ。記事はオリンピック絡みの無理やり感があったのですが、いろいろと気づかされます。

記事要約 「英国 EU離脱論が消えないワケ」ヴェリタス 2012.8.5

EUに加盟しているが、大陸欧州とは独自路線をいく英国。「栄光ある孤立」を実現している根拠を5つ示している。
  1. 大英帝国の名残。プライドが孤立を生む。
  2. EU参加の条件として、ユーロ参加例外など様々な例外(オプトアウト)を獲得している。
  3. 1992年のボンド危機(ボンド暴落)で、世界通貨との連動が外れ、孤立した通貨となった。独自な通貨施策が可能となる。
  4. 英国の成長戦略の核である、金融街シティー。これを守ることが国家施策の最優先事項。
  5. 財政施策、金融施策はEU施策に縛られない迅速かつ独自な路線を実施でき、成功している。

日本と違う

記事のグラフ「英国のGDP産業別構成比」が面白い。いや知らなかった。英国のGDPの三分の一は、金融業により生み出されているとは。製造業は、全く出てこない。日本では、たしか製造業が25%程度で、一番だったと記憶しています。 これでは、日本と英国では政府の経済施策が全く異なってもおかしくない。いや、違うべきだ。マスコミの関心も全く異なるだろう。英国エコノミストと日本経済新聞では、「なんかセンスも論調も違うな、エコノミストは恰好良いな」と漠然と思っていましたが、多分この経済構造のせいですね。汗水垂らし製造ラインで働くイメージを持つ日本のマスコミの経済記事が、プロレタリアっぽい論調になってしまうのは当然ですね。そして、口先三寸の分析で金融マーケットを動かすスーツ姿のマスコミ記事がクールに見えてしまうのですね。(この当たり冗談ですよ)
当然ですが、経済の構造の違いは、必要とする財政政策、金融政策の違いに現れるはずです。他国が成功したからといって、自国で成功するわけがない。超国家による政策協調は、部分最適を生まないのです。最近話題の本 ノーベル賞経済学者ポール・グルーグマン著「さっさと不況を終わらせろ」の指摘が、アメリカには通用しても日本に通用しない。当たり前の理屈を踏まえた、地に足がついた議論が面にでない気がします。

個人も構造が違うよね

「xxxすれば儲かる」見たいな成功のための方法論みたいな本が売れています。「○○が教える幸せの法則」とかも同類。人も、それぞれ(精神や背景、能力、資産など)構造が違うんだし、その本の通りにして成功することは絶対にないでしょう。そのような本は、選びうる施策の一つです。選択出来る可能性のある施策案をたくさん知っておくことは良いことだとは思いますが、無理な真似は失敗しますな。まずは、構造を知ることから。

2012年8月4日土曜日

貴船考 タカオカミ考


貴船神社に行きました。目的は撮影旅行。だけど出来は散々。iPhoneの写真のほうが随分とマシ。哀しくなるので、写真の話は終了。いつか、リベンジを果たします。

京都バスで貴船口に到着し、徒歩で貴船神社に向かいます。歩道が整備されていないので、車道の脇を進むのが興ざめ。しかし、さすがは水の神の下、鴨川の源流が途中に小さな滝をなしながら、涼しげに流れている。気持ち良さそう。車道じゃなくて川辺を歩いて登りたかった。

貴船神社の由来
30分ほど登ると、貴船神社本宮にたどりつきます。祭神は高オカミ神(たかおかみのかみ)。水神であり、その姿は龍、オカミの字は雨冠に口三つに、龍と書きます。暴走族ご用達の漢字ですね。
さらに登ると、結社(ゆいのやしろ)があります。祭神は磐長姫(いわながひめ)。縁結びの神とされていますが、私の知っている磐長姫はそんな能天気な姫ではない。妹の「コノハナサクヤ」と共に天孫族ニニギに嫁に出されるのですが、その醜女ゆえ返されてしまうのです。なぜ、そんな縁薄き姫が縁結びなのでしょうか。とても強引な気がします。
さらに100mほど登ると奥宮(おくのみや)。奥宮(おくのみや)に奉られたいる現在の祭神は、闇オカミ神(くらおかみのかみ)。クラオカミはタカオカミと同一神であり、あるいは対となる神だと言われています。1055年に奥宮よりタカオカミは奥宮から本宮に移されたそうですが、では今ここに祭られている神はやはりクラオカミなのでしょうか。クラオカミとは、タカオカミのダークサイドなのでしょうか。
奥宮には、船形石と呼ばれる、恐らく上からみたら船の形に見えるに違いない遺跡?があります。1600年程前、大阪湾に黄色の船に乗った神、玉依姫(たまよりひめ)が現れ、この船が行き着く処に棲む神を敬えば、国は栄え民は幸福となると宣言し、船を進めます。船は鴨川を上り、貴船川を上り、その源流にたどり着きます。それが奥宮です。その時の黄色い船に由来し、貴船と呼称されたとも言われています。御船形石の遺跡の中には、その時の貴船が隠されているそうです。

奥宮の地に潜んでいたもの
イワナガヒメとコノハナサクヤの父は、オオヤマツミです。タカオカミもオオヤマツミもイザナミ、イザナギの子だと言われています。イザナミ、イザナギの国生みの儀で生まれたクラオカミが、タカオカミであり、またxxxxヤマツミと呼ばれる八神がオオヤマツミのことだと言うのです。しかし、古事記も日本書紀も朝廷の側から書かれた書物であり、特に由来については疑ってかかる必要があることは常識です。オオヤマツミの意は、山を統べるもの。オオヤマツミは、当時の朝廷と同等の力を有する豪族ではないかと推測しています。イワナガヒメ、コノハナサクヤの婚姻とは政略結婚であり、朝廷との血縁関係の成立だったのでしょう。山を統べ、水源を牛耳っていたオオヤマツミの一族が奥宮の正体だったのでは。
ところで、山を統べる人達とは、具体的には鉄(たたら)を統べる「山の民」ことだとは、民族学の常識です。
貴船神社からの帰り道、貴船口でバスに乗り損ねた私たちは、二ノ瀬まで歩いて行きました。途中で、ちょっと不思議な灯籠と木箱を見つけます(写真)。後で調べてみると、これは木製の愛宕灯籠で、向かって右の木箱は火伏札を奉納する神具らしいことが判りました。愛宕神社は、火の神の神社。二ノ瀬あたりには、火を制御し、信仰する火の民の文化が根付いているのです。
Q. 京都(洛北地域)の愛宕灯籠の横には、必ずといって良いほど木箱があり、3本の榊が挿してありますが、愛宕灯籠と関係するものなのでしょうか?
A. 加茂社の御阿礼神事において遥拝所に3本の榊を挿すという記載があり火伏の神として「愛宕さん」への遥拝所的な役割があるのではないでしょうか。
(Yahoo 知恵袋 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q127219437)

そして貴船は京都の北東に位置しています。丑寅(うしとら)の方角、そうです鬼門です。朝廷にとって当時の貴船は異人(鬼)の棲む土地だったのではないでしょうか。

貴(黄)船のたどった道
貴船の伝承とは何を意味しているのでしょうか。朝廷に従わぬ山の民とは異なる、もう一つの民「水の民」(海の民)を利用した山の民侵略か国替えではなかったかと疑っています。朝廷は異人を使い、異人を制圧する手を使ったのではないでしょうか。その民が、タカオカミだったのではないか。
かくして、貴船は水の民と山の民、異人神であるタカオカミ、オオヤマツミが封じられ、朝廷の神話大系にクラオカミ、ヤマツミ八神として組み込まれていきます。
貴船の地は呪いの地となりました。丑の刻参りが、この地から生まれたのも、決して偶然ではないでしょう。

なぜ磐長姫(いわながひめ)が祭られているのか
オオヤマツミの娘達、コノハナサクヤとイワナガヒメは対象的な女神です。コノハナサクヤは、超美人で有名で、イワナガヒメは、見目がとても残念な女神ですが、磐のごとく健康的で長命であり、イワナガヒメと結婚することは子々孫々長く繁栄することが保証されます。コノハナサクヤは、短命です。天孫族ニニギがコノハナサクヤを選んだことは、天孫族の栄華が続かないことの呪いです。
出戻りとなったイワナガヒメは、さぞや哀しく朝廷を恨んだことでしょう。その呪いを恐れた朝廷が呪いを封じるため、縁結びの神として奉ったのではないかと思います。貴船神社が、その豊かな水源から雨ごいの地として有名になった平安時代は、呪い合戦の時代でもありました。最強の鬼神菅原道真を封じる天満宮など同様の仕掛けが用意された時代でした。

貴船神社は美しい処でした。川床で食べた釜飯もビールも大変美味しく、本当に久しぶりに休日を、旅を満喫しました。
もっと写真の腕を上げて、今度は叡山電鉄に乗って鞍馬駅から散策してみたいものです。

2012年7月22日日曜日

怪鳥ロプロプの謎 ー エルンスト展感想 (駄文) ー


2012年7月15日、犬山城を後にして愛知県美術館に向かいます。お目当ては「マックス・エルンスト フィギュア X スケープ」展。
前回の「魔術・美術」展が、もの凄く面白い企画展だったので、今回の期待のハードルは高い、高いのです。到着したのは15時ぐらいだったでしょうか。

美術作品のテーマって
美術作品の企画展はテーマ設定が大変難しいのでしょう。XXXコレクションとか、一つの有名作品を見せるためのとってつけたようなxxx派展とか、触手が動きません。かといって、余りにストレートなテーマは想像の範囲が殆どなく単調です。シュールレアリズムの変遷とかは、ちょっと引いてしまいます。今回の「フィギュア X スケープ」は、いいですねえ。謎めいていて想像力が掻立てられます。手渡された解説を一寸読むと、テーマ判った気になるんですが、それほど浅くはありません。スタートは、コラージュ作品。詩集「反復」の挿し絵は正直、何が描かれているのか、その意図はさっぱり理解できません。でも、なにか一貫した「もの」がある気がする、感じるのです。恐らく、詩から受ける脳内のイメージを、詩と同じ方法で表現したのでしょう。詩は言葉を選び組み合わせることで新たな「なにか」を生み出すのですが、コラージュは既存の絵を切り貼りし、配置し組み合わせることで、別の「なにか」を生み出す手法ですから構造が良く似ています。それにしても、抽象度が高く観るたびにドキドキします。それはフリージャズを聴いてる時の興奮に似ている気がします。
挿し絵形式で物語の形式をとっているものがいくつか展示されていました。「不滅な人々の不幸な出来事」、「百頭女」、「カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢」、「ナイフ氏とフォーク嬢」、「慈善週間または七大元素」など。どれも不気味で、少しエロっぽくて、なにか物語が見えてきそうで、でも良く判らん。そしてドキドキします。そうか、これが美術作品群のテーマ・企画と言うものなのかと気づきました。直喩ではいけないのです。底が浅く、すぐに飽きてしまいますから。作者の意図も超えた、あるいは自分さえも判らない深層心理をすくい上げ、その手がかりを垣間見せるぐらいの得体のしれなさが必要だし、その一方で一つの流れや「くくるもの」が必要です。観る人は適当な幅で右往左往し想像出来るのが、良い芸術作品なのでしょう。そして良い企画展もそうなのでしょう。
石化した森

お気に入りの森
展示テーマとは別に、単純にマックス・エルンストの気に入った作品がありました。「森」シリーズです。「森」はエルンストが好んで油絵で描く題材らしく、今回の展示でも10点ほどあったと思います。そこには人や動物は出てきません。人を寄せ付けない深い神秘な森の様々な姿と単純な円で描かれた月が存在するだけです。森は唯々深く、月は無言で森の中に埋まっています。森の上ではないのです。森は、それほどに圧倒的に世界を支配します。国立西洋美術館の常設展に飾られていた、なじみの「石化した森」も展示されていました。なじみの人に偶然会えた感じで、ちょっと感動したりします。(右の写真、国立西洋美術館で撮ったもの)
今回、お気に入りに加わった作品もあります。「マクシミリアーナ、あるいは天文学の非合法的行為」(エッチング)の一連の作品です。文字と挿し絵で構成されているのですが、なんと文字はエルンストの造形なのです。これは、もうグラフィックデザイン、DTP、書道。文字は機能を換骨奪胎され抽象的な表意文字?になってます。これも森シリーズも絵葉書が販売されていないので、ちょっとがっかりです。

ロプロプの謎
ところで、エルンストの作品の中には随所に「ロプロプ」と名付けられた鳥人間が現れます。頭は鳥で体が人間です。解説によれば、エルンストが未だ子供の頃、可愛がっていた鸚鵡が死んでしまい、その日に妹が生まれた事から、鳥と人との霊的なつながりを知りショックを受けたのだそうです。自分にも守護霊的な鳥の存在がいることを確信し、自分の代理人・分身としての鳥(鳥人間)を作品に登場させるようになりました。ロプロプの名は、自分の子供に木馬を与え、それを揺すりながら「ギャロップ、ギャロップ」と囃していたため、子供は「ロプ、ロプ」と覚え口ずさんだことに由来すると書かれています。ロプロプの名は、その頃に初めてエルンストが発言し、「ロプロプが紹介する」と名付けたタイトルもあるそうです。
これからは私の想像です。自分の息子が「ロプロプ」と、はしゃいだ時エルンストは最初なんの事か判らなかったのではないでしょうか。そして自分には見えないが子供には「ロプロプ」と呼ばれるものが見えているのではないかと気づくのです。それは以前より信じていた自分の守護霊だと確信したでしょう。こうして自分の守護霊の名前を知ったのでないでしょうか。怪鳥ロプロプの誕生です。日本の言霊信仰によれば、名を持つことで、それは現実となるのです。

さらに、想像は続きます。長年、バビル二世の三つのしもべの名の由来はアニメファンの謎でした。ポセイドンは明らかに海の神が由来です。しかし、ロデムとロプロスは、由来が全く不明です。ギリシャ神話を含め、その名前はないのですから。もう御判りでしょう。恐らく、ロプロプが由来です。怪鳥ロプロプと呼ばれたエルンストの鳥人間を、どこかで耳にした横山光輝先生が、その語感の良さから採用し、ロプロスとしたに違いありません。バビルも、本来バベルのはずですが語感の良さからバビルに変更したそうですから、ロプロプーロプロス変換は、なにも問題なかったでしょう。

脱線しましたが、マックス・エルンスト展は、その企画テーマの御陰で素晴らしい世界観を持った展示となり、飽きることなく一気に観ることが出来る、そしてドキドキが止まらない楽しい展示でした。この感動を何度も深く味わうことが出来る充実したカタログにも満足です。これで、また次の企画展のハードルが上がってしまいました。

2012年7月17日火曜日

犬山三社の謎に迫る


2012年7月15日、あいにくの曇り空でしたが犬山に行ってきました。目的は勿論、国宝犬山城です。天守閣に登りましたが、手摺が当時のままの高さ50センチほどで、うっかり身を乗り出すと落ちてしまいそうで、ビビってしまいました。なかなかの迫力です、今まで事故が起きなかったことが不思議なくらいです。

ところで、犬山城のふもとに神社がたくさんあります。
主要な神社は、城下町から犬山城に向かって、左から犬山神社、三光稲荷神社、針綱神社です。
「たくさん」と書いたのには誇張はなく、確認しただけでも以下の様に「たくさん」あります。
三光稲荷神社の境内には、三光稲荷神社社屋とは別に猿田彦神社、大宮女神社がありますし、末社として山之神社もあります。針綱神社には、その境内社として10個(と数えるのだろうか)の小さな神社があります。針綱神社の最初の鳥居の左横には、太宰府天満宮の分社もあるのです。

なぜ、こんなに集まったのでしょうか? それぞれがどのような役割を持っているのでしょうか? 気になったので調べてみました。

犬山神社は、歴代の犬山城城主が祭神です。この神社は一番わかりやすい。人は死して神となるのです。徳川家日光東照宮もそうですね。

狛犬ならぬ狛狐
三光稲荷神社の祭神は、宇迦御魂大神(うかのみたま)で、この神様は御稲荷様の総元締めにあたる神様だそうです。宇迦御魂は、イザナギとイザナミが空腹で弱っている時に生まれた神で、食べ物に関係する神様でもあり、なかなか由緒も正しい。男神でも女神でもないようだ。

三光稲荷神社の境内にある猿田彦神社の祭神、猿田彦は有名な神話界のトリックスターです。猿田彦神社は全国にたくさんあり、熱田猿田彦神社が総元締め(異説もある)だそうです。

大宮女神社の祭神 大宮女は別名姫亀神。縁結び、安産などの神でご神体は女陰を模した岩です。

この三祭神が同じ境内に鎮座するのは、なにか意味があるのでしょうか? 大宮女は、実は"うずめ"ではないかと想像しています。"うずめ"は、猿田彦の妻であり、また猿田彦を海で溺れさせたのではないかと疑われている女スパイでもありました。(後で追跡調査したら、その通りで、私の推測もなかなかと自慢。)
狐(動物)、男、女とそろっているのが、なにか意味があるような気がします。

一番良くわからないのが針綱神社です。犬山の有名な祭は、この神社に起因するのですが、祭神が不明。針綱明神とは、そもそも誰なのかが判らない。祭神は、記録ではククリ姫も含め十神ほど名を連ねているのですが、とってつけた感じがします。重要な祭神は筆頭に書かれている天火明命(アメノホアカリ)で、尾張氏一族の祖です。どうも古くこの地を納めた豪族の氏神らしい。つまり、氏神であるアメノホアカリが祭られ、その封じ込めに他の神々が利用されたのではないかと想像してしまいます。大和朝廷にて封じこめられた出雲の古代神を使い、各豪族の氏神を制する構図は、各地方で頻繁に見られるやり方だそうです。

なんだか、最近「鬼の日本史」(沢史生)とか読んでいて、いろいろと想像を逞しくしてしまいました。罰当たりな気もしますが、ちょっと「歴史発見」みたいな気分です。

2012年7月8日日曜日

音楽無制限! がんばれソニー


ソニーの定額制音楽配信サービス Music Unlimited が国内で始まった。既に海外ではやっているし、今年4月開始の噂もあったので、やっと始まったかと言う感じです。でも個人的には結構うきうき、そわそわ。

AV Watch 記事

月額1500円と廉価版CD程度の値段で1000万曲を聞き放題。同じ曲ばかり聞くヘビーローテーションな人にとって、毎月課金は割高。新しい曲を追っかける人にとって割安。このサービスは、日本で受け入れられるでしょうか。低迷し続ける音楽販売は、これを期に再び活性化するでしょうか。ポイントは、3つあると思います。


  1. 年間1枚もCDを買わない人達が大多数。この人達を動かすことができるか?
  2. ネットオーディオ環境は普及しているか?
  3. 音質は十分か?


とある調査では、年間の音楽CD購入枚数は平均1枚以下だそうです。多くの人達は音楽に何を期待しているのでしょうか?握手券やコレクション目的のヘビーユーザは兎も角、一般的な人達は音楽にコンサバなイメージを持ち、安心して聞けるお気に入りを持っていれば十分だと感じているかと思います。このような人達にとってMusicUnlimitedは、良いサービスじゃないでしょうか?昔良く聞いた曲や流しっぱなしにしても疲れない曲をタップリ聞き流し出来るのですから。若い人達にも昔の曲は新鮮ですし。MusicUnlimitedのようなサービスは、カバー曲を増やすことになると思います。

再生出来るのは、ソニーのゲーム機 Vita、PS3やスマートフォン、PC、Mac などです。近くiPhoneにも対応するようです。
スマートフォンやiPhoneでの再生ですが、日本ではまだストリーミング放送は厳しく、オフライン機能を利用することになるでしょう。これは同じ曲をずっと聞くことになりがちで、割高。PCやMacがリビングに進出している家庭はまだ、十分には多くないと思います。また、スピーカやアンプをしっかりと用意しているPC,Macも多くはないでしょう。スイッチ一つで聞ける環境が用意しにくいと言う点で、厳しいと思います。ただし、Radikoの例がありますので、意外と受け入れられるかも知れません。

48kbps + AACの音質だそうです。これがどれくらいなのかと言うと、iTunesの購入は 128kbs + AAC で、Appleいわく「ほぼCD音質相当」だと言うことです。乱暴な言い方をすれば、三分の一の音質。貧弱だと思われるネットオーディオ環境と合わせると随分と哀しい感じです。しかし、携帯ダウンロードとか、今までもこんな状況だったので、一部のマニアを除けばあまり問題にならないでしょう。

分析してみると、なんか割といい感じです。普及してもおかしくない気がしてきました。
しかし、致命的な問題が2つあります。マーケティングです。

このサービスは、PSN (Playstation Network)のサービスの一つです。企業再生のため、ゲームビジネスに大きく注力するソニーにとって、Music Unlimitedは他社との差別化のための手段なのです。けっして、X-BOXやWiiに普及することはありません。ターゲット層は、普通の人ではなくゲーマなのです。自社の音楽ビジネスをつぶしかねないMusicUnlimitedも、ターゲット限定ならば問題ないと考えているのかもしれません。普通の人が、MusicUnlimitedを知ることも、PSNのアカウントを取って参加することも、割と敷居が高いことでしょう。

もう一つの問題は、日本の楽曲です。まだ邦楽は数万曲程度だそうです。これから交渉していくそうですが、それは発表までに交渉を完了出来なかったことを意味します。まあ、いつもの問題ですが、これは意外と壁が大きい。目的がソニーのゲームビジネスの活性化なので、各レーベルはメリットを感じにくいのです。やっとダウンロード販売を受け入れた日本の業界にとって、定額制無制限供給は、まだまだ未知な点が大きいビジネスでしょう。

それでは、今後どのような展開になっていくのでしょうか?

日本でのMusicUnlimitedが発表されたことで、同様のサービスを海外で展開している企業、これから定額制を実施しようと検討しているに違いない企業が相次いでサービス開始を発表するでしょう。具体的には、海外では有名な欧州系定額制音楽配信サービス spotify 、そして Apple 、 Google 、Amazonが今後半年から1年の間にサービスインするのではないかと予測します。恐らく、Music Unlimitedよりも敷居が低いのではないでしょうか? また、Appleは音質については妥協しないと期待しています。いずれも邦楽については、どっこいどっこいでしょうから、その点は差別化の要因にはならないでしょう。結局、MusicUnlimitedが国内で普及にもたついている間に、黒船襲来で、その市場を取ってしまうと予想します。

日本の音楽業界は、いずれの波にのることも出来ないのでしょうね。座して死す感じ。

ところで、私は?
結構、悩んでいるんですね。PSNのアカウントは持っているので、すぐ参加出来ますし。参加したら、

  • 一日かけて、マイルス・デービスやソニー・ロリンズを初期から最新まで聞き続けてみたい。xxxx 三昧。
  • 最新発表のJazzばかり聞いて、今度買うCDを決めたい
  • 民族音楽とか、日頃あまり聞かないものをタップリ聞きたい

などなど、欲望は膨らむばかり。

Appleが発表してくれるまでの間だけでも、Music Unlimitedにはいっちゃおうかなあ!

2012年5月20日日曜日

思い出の筑紫耶馬渓(ちくしやばけい)

B筑紫耶馬渓
小学生の頃だった。夏、父が休みの時には耶馬渓(やばけい)まで車で連れていってもらった。たまに当時の友達も一緒だったと思う。車を道路脇に駐車して、川に降りていくと、たくさんの大きな岩の間を川が流れており、時には深い溜まりとなり、小さな滝を形成し、それほど深くもなく、流されていくこともないので、絶好の遊び場だった。ちょっとした探検、冒険の気分。何度も何度もせがんで連れていってもらった。

最近「鬼の日本史」(沢史生著)を読んでいて「やばけい」と言う言葉にひっかり、調べてみると、耶馬渓は大分県にある。青ノ洞門とかで有名な耶馬渓だが、なんか記憶と違う。だいたい当時住んでいた福岡市内から、車で数時間で行けるわけもなく、何だか変だと、さらに調べてみた。
私が小さい頃、通った思い出の耶馬渓は、筑紫耶馬渓(ちくしやばけい)。那珂川の上流にある小さな渓谷だった。那珂川は、福岡市の中央を博多湾に流れていく川で、歓楽街で有名な中洲を形成していることで有名だが、なんだ、私は那珂川の上流で遊んでいたわけだ。

筑紫耶馬渓の観光案内記事
那珂川上流、南畑発電所から南畑ダム下までの一帯。「脊振雷山県立自然公園」に指定され、別名「釣垂峡」とも呼ばれる。規模はあまり大きくないが、滝や巨石・奇岩などが多く、渓谷美が楽しめる。
http://www.innovade.co.jp/en/seasons/11/momiji/chikusiyabakei.html

那珂川上流に位置し、「釣垂峡」といっていたが、大分県の耶馬溪と対比して「筑紫耶馬溪」と呼ばれるようになった。ヤマメ、ニジマス、ハヤがすみ、シーズンには釣り人も。夏は涼を求め川遊びやキャンプ、秋はカエデ、ハゼなどの紅葉を楽しむことができ自然に親しむのに絶好の行楽地である。
http://www.crossroadfukuoka.jp/event/?mode=detail&isSpot=1&id=4000000000328

それにしても、小さい頃の記憶は、スケール感が実際と大きく異なっていて面白い。YouTubeには、筑紫耶馬渓へのドライブ動画などがアップされており楽しんだが、やはり「あれ?」って感じ。

「日本三大がっかり名所」というのがあるそうだ。観光名所なんだけど、実際に行ってみると、えー!!これだけ?って感じで、想像と全く違っているとがっかりする名所で、
  1. 高知の播磨屋橋
  2. 札幌の時計台
  3. 長崎のオランダ坂
だそうです。私は、いずれにも行ったことがありません。がっかりしないように期待を減らしておきますので、いつか行って見たいものです。

2012年5月6日日曜日

雨の美術館 ロベール、ピラネージ、ハンマースホイ、ビシェール

国立西洋美術館に来ました。ゴールデンウィークも真ん中、混んでるかなと心配したが企画展がユベール・ロベール展と一般受けしないやつで、賑やかさも程よい感じ。雨の中、館内にはいります。先ずはユベールから。


「廃墟のロベール」と異名を持つフランス風景画家の展示品の多くをサンギーヌと呼ばれるチョーク画が占めています。エモーショナルな感動は受けませんが、ジブリのラピュタ世界を感じます。彼が描くのは長く滞在したローマ。当時のローマは古代、中世、ルネサンスのそれぞれの遺跡が発掘され、剥き出しになり、村や街の彼処に顔をみせていました。日常の中に異次元の、異世界のモノがさりげなく混じっていたらしい。そのチョット不思議観が面白い。副タイトルの「時間の庭」はそう言う意味でしょう。ロベールは「国王の庭園デザイナー」だそうです。デザインのために実際には存在しなかった風景も描いています。

さて、常設展示へ。いつも、これが楽しみ。ピラネージ 「牢獄」展を開催されていました。


ピラネージ (1720 - 1778 )はイタリアの画家であり建築家と自称していましたが、実際に建築されたものはないそうだ。エッチングで描かれた版画作品集でテーマはローマの牢獄。一版と自身が編集し直した二版の中からの展示。二版の方がダークで力強くて牢獄してます。何処かで見たような気もするのですが、映画か小説の挿絵だったのかもしれません。ゲームかな。牢獄には跳ね橋や拷問器具など様々なギミックがあり、入り組んでいてダンジョンの様です。

常設展示の2階の奥に、今日もハンマースホイの作品「ピアノを弾くイーダのいる室内」がひっそりと掛かっていました。


国立西洋美術館が所蔵するハンマースホイ作品はコレだけで数年前に購入したらしいです。この人、寂しい室内を描いてばかりいるひとで、人物も奥さんイーダの後姿ばかり。家具も少なく、全体のモノトーンな色調も相まって生活感が全くありません。この寂寥感はとても心惹かれます。デンマークの作家で生前は売れっ子だったそうです。生きている人が描いてこその寂寥だったのでしょうか。最近の常設展示のマイブームです。

常設展示の出口近くがモダンアート。いつもはミロやエルンストで締めるのですが、気になる作品を見つけてしまいました。


ロジェ・ビシェール 「花を持つ貴婦人」。観てて、すごく不安な気持ちになってきます。最初、その理由が判らなかったのですが。顔の左右が違うのですよ。非対称とか、そう言うものではなく異なる人の顔をさり気なく、くっつけた感じ。これは何なんでしょう。いっそ、他の抽象画の様にハッキリ描き分ければ良いのに、微妙なので、ジワジワと背筋が寒くなってしまいます。また観に来なければなりません。

外は雨が降り続いています。売店でハンマースホイの絵葉書も買ったし、暗く静かな気持ちになりましたし、さあ帰るとしましょう。

2012年3月17日土曜日

Appleはプロモーションも再発明し始めた

2月のOSX Mountain Lionの発表からです。Appleの新商品プロモーションのやり方が大きく変化しています。一般広報への発表前に、一部のメディア、一部のブロガーに個別プレゼンを行なったのです。ポイントは

  1. 全てのメディアではない、"一部”だった。
  2. メディア以外にも何名かの有力コメンテータ(ブロガー)が選ばれた。
  3. ホテルの一室にお呼ばれされ、プレゼンテータ(Appleの有力者)複数名、お客一名。
  4. 発表当日まで情報公開を禁じられていた。


そして発表当日。彼らが一斉に詳細かつ好意的な記事を競って書いたのだ。このパターンは、"新しいiPad"でも行われたらしい。
アフター・ジョブズのAppleの大きな変化は、予想外なところから現れました。Appleの新戦略のキーは、コミュニケーション。コミュニケーション・コントロールの実現を目指しているのではないしょうか。

Appleが抱えているリスクの一つはユーザの反乱です。歴史的にAppleのユーザのロイヤリティは非常に高い。もちろん私もその一人です。世界一になった今でも、古くからのユーザのAppleに対する信頼、ロイヤリティは熱いと感じていますし、Appleも古いユーザが期待している新興企業らしさ、スノッブさも失っていません。Apple製品は、まだ個人の差別化のギミックとして重要なのです。しかし、ある時、体制側になってしまう可能性があります。Microsoftのように。アナキンがベイダー卿に変身するように。そうなると、ユーザは精神的に離反するかもしれません。ビジネス基盤と異なり、生活基盤の製品の離反は怖いものです。Sonyが証明しています。このような状況に陥らないように、そして生産から消費市場の全てをコントロールするために、その最後の仕上げであり、リスクマネジメントのために、今回のコミュニケーション戦略が採用されたのではないかと想像してみました。

王者なればこその、なんと巧妙な手段なのでしょう。マスコミで生活する人々にとって、他が持っていない情報は喉から手が出る程ほしいものです。それをソース元が提供してくれるのです。ユーザに影響力を持っていれば、個人にも提供されるのです。当然ですが、ガセを積極的に流したり、面白おかしくAppleを取り扱っていた人気ニュースサイトには、提供されませんでした。大手ニュースメディアも一部しか選ばれていないのです。差別され、特権を得た提供者は不用意に漏らすことはないでしょう。漏らしてしまえば、次回以降は絶対なしですから。ユーザは誰が本当のことを知っているかを知っているので、結果他のニュースソースは、信じないでしょう。他のニュースソースは、憶測を流せば流すほど、Appleから嫌われ、ユーザから離反されることになります。次回、Appleからプライベートショーへの招待状を受け取るためには、真面目に記事に取り組まなくてはならないのです。暴露合戦はなくなり、ユーザは正しく新しい商品に期待を膨らませることができるようになります。(とAppleは考えているでしょう。 政治に利用したらヒットラーですね。)

この戦略は、Appleが過去に始めたエバンジェリスト作戦の発展版と位置づけることもできますが、全く新しいプロモーション手法であると思います。マーケティングにおいても、Appleは革新的な企業であることが証明され、新しいAppleの可能性が見えてきました。

日本企業は、このような手段を絶対にとらないし、思いつきもしないでしょう。横並び、公平、予定調和は日本の伝統ですからね。それに、新メディア製品を旧メディアで宣伝している日本(SNSの宣伝をTVで行っている)ですから。

2012年3月11日日曜日

あの震災の夜と組織論


震災の夜 浅草の水門
一年前の震災の夜、船橋の方へ友人と歩いて都内を脱出しました。多くの人がiPhone片手に指し示す道を黙々とパニックに落ちることなく行進していました。真の災害は、東北に起きたわけですが、その時は自分のことで、一杯一杯だったと記憶しています。
帰宅に向かって少しでも近づく、その時の行動が正しかったのか今も良く判りません。都内に留まるべきだったのかも知れません。ただ、会社も行政も指針を示すことなく、ただ各自の判断にゆだねてしまったようです。それは当たり前のようでもあり、残念なようでもあります。統一しすぎる行動は、被害を大きくする場合もありますから、行動が分散することは結果として良いことだったでしょう。でも、その一方で会社も行政も危機の際のリーダシップを発揮することができなかったと感じます。すべては、現場の人達の勇敢な行動だったり、被災者の必至の行動にゆだねられたのです。それは哀しい出来事でした。
一方で、米軍の「ともだち作戦」行動は見事でした。行動の一貫性、意思決定の迅速さ、リスクマネジメント、記録の豊富さ。それは訓練された軍隊だからだと思いますが、少なくとも日本の行政や自衛隊は、同様の組織的な行動は出来なかったのでしょうか? 自衛隊の方々が現場で必死の救済活動を行ってくださったことは報道されておりますし、ありがたいことだと感謝しております。私の言いたいことは、個人の頑張りに頼り、緊急時の組織的行動が出来ない、訓練されていない日本の組織のことを残念だと言うことです。
組織について、日本のインテリは勘違いしています。組織は組織図を書けば、おしまいではありません。組織図とは指揮命令系統であり、情報の経路であり、報連相の手順です。インテリの方々は、組織図を権力の構造として描いていませんか。組織は訓練しなければ機能しません。組織図を書けば、機能するわけではないのです。ホロンとかアメーバとか鍋蓋とか、プロジェクト型とか事業部別とか、組織論で遊ぶのは結構ですが、巻き込まないでほしいものです。だれも理解できませんよ。新組織を出来るだけ早く機能させたければ、昔から存在し、万人が直感的に理解できる明確なツリー型にしてください。明確な階層構造の組織の力強さを改めて思い知った次第です。

私にとって、一年前の教訓は「自分と、自分が直接所属するの10名程度のコミューンだけが頼り」だと言うことです。それ以上の規模は、日本では機能しないし頼りにならないと震災時に理解しました。願わくば、小さいコミューンが、集まってさらにコミューンを作り上げ、結果、ツリー構造となれば良いなと期待しています。

震災以来、心がけていることがあります。

  1. iPhoneは欠かせない
  2. バッテリは常に持ち歩く
  3. 服装は動きやすいものに、靴は疲れないものに
  4. 手荷物は絞り込む、バックは両手が使えるものに
  5. 体調には常に気をくばり、最善にしておく

iPhoneは本当に頼りになりました。通信やGPSの問題だけではなく、必要な情報の保管場所であり、生活そのものを持ち歩くことが出来る道具として。この完成された道具を世に送り出してくれたAppleには大変感謝しています。

写真は、船橋方面に歩いている途中で撮った水門です。20時頃、浅草辺りだったと記憶しています。この写真を撮った時には「最悪は脱した、良かった」と思っていたのです。なんて甘ちゃんだったのでしょうか。

2012年3月8日木曜日

夢であいましょう


夢を覚えているでしょうか。目を覚ました時には覚えていたつもりだったのに、いざ話そうとすると全然思い出せません。しかし、ひょんなきっかけで、三夜だけ、断片だけをiPhoneのメモ帳に記録することができたのでブログに書いておくことにします。脚色入っていますし、ちょっと恥ずかしいのですが。

第一夜 駅
電車に乗っている。地方都市の路線らしい。乗客は殆どいないようだ。四人掛のボックス席を1人で占領し、窓際で肩ひじついて外を眺めている。
いつの間にか、駅に降り駅員に何かを尋ねている。ゆったりとした感じ。結構大きな駅のようだ。複数のホームがある。船橋駅のような感じ。
突然、走っている。駅の陸橋を駆け上がり、どこかのホームに急いでいる。
そこで、目が覚めた。

第二夜 飛ばされもの
三姉妹が大きなスクリーンを見ている。スクリーンには青空、雲、そして迫り来る無数の空中戦艦が観える。敵の総攻撃を前に三姉妹は、戦闘ロボットに乗ろうと城の脱出を試みる。結局一人脱出することができた。
脱出した先は異次元の小さな島。なぜか、異次元だと理解している。記憶もぼやけ、自分の使命も思い出せないまま島で暮らす。
やがて、この島には、その様な「飛ばされ者」が多数いることに気づく。
遠くの海を眺めていると、黒い嵐雲が迫ってきた。
そこで、目が覚めた。

第三夜 犬
犬の散歩中。何かのきっかけで犬が逃げる。犬は一旦立ち止まり、こちらを情けない顔でみる。急に消える。場所は小高い丘の上。落ちたのかと丘の下を覗いてみるが、落ちた様子もない。
そこで、目が覚めた。


アニメの影響が大きいな。アニメ観すぎかもしれない。

2012年2月25日土曜日

”蜩ノ記”と”蝉しぐれ”


藤沢周平さんが亡くなり、新作は読めません。藤沢周平的な書に飢えていました。
先日、直木賞を受賞した「蜩ノ記」(葉室麟 著)は、時代劇であること、タイトルに「せみ」が絡んでいたことから、ビビっときました。流行モノに手を出したと思われたくないので、普段はタイトルだけ頭の隅に置いといて文庫になった時に購入するのですが、「蜩ノ記」は、早速購入しました。

結論から言うと、とても満足しました。久しぶりに飢えが満たされた気がします。しかし満たされたのは藤沢周平的な食欲だったのか、純粋に良い作品に対する飢えが満たされたのか不明だったので、少し考えてみます。

藤沢周平さんの代表的な作品のひとつ「蝉しぐれ」と「蜩ノ記」を比べてみると、どちらも時代劇であり、共通な要素が多いことに気づきます。切腹。蝉しぐれの主人公牧文四郎の父は文四郎が若い時に切腹します。蜩ノ記の戸田秋谷は、10年後の切腹を命じられます。両作品とも城主の正室あるいは側室となる想い人が存在しますし、その描かれ方も良く似ています。男の成長について、蝉しぐれは文四郎の成長の物語であり、蜩ノ記では、秋谷の子、郁太郎の成長を見守ることになります。舞台となるのは、蝉しぐれは有名な海坂藩で、蜩ノ記は羽根藩。共に架空の地方の貧乏な小藩です。北と南の違いはありますが、どちらも財政問題を抱え藩主は不在です(参勤交代とはそんなもんなのでしょうが)。ちなみに、蜩(ひぐらし)で、羽根(はね)とは、ちょっと出来すぎの名称かなと思います。せみの鳴き声の使われ方は同じだと感じました。ある場面を、何度も回想することになる思い出として印象的な絵のように描く為に、場面全体に響く背景のように蝉の鳴く声を入れています。マルチメディアな効果でしょう。

葉室麟さんの作品は、蜩ノ記が初めてですが、恐らく斬り合いのシーンも藤沢周平さんの作品と良く似ているのではないでしょうか。最小限の動きのみを描き、派手な立ち回りはせず、閃光や音で緊迫した状況を短く描写します。緊張した空気が伝わる文章は、隠し剣シリーズに通じるものがあります。

蝉しぐれと蜩ノ記は、タイトルだけではなく、物語も同じシリーズの作品ではないかとさえ思いました。戸田秋谷の子が、文四郎であり、文四郎が成長し、また因果な政争に巻き込まれる大河ドラマを想像してしまいます。ただ、蜩ノ記の戸田秋谷は、かなりスーパーマンな人で完全無欠な人物として描かれています。このような人物は、決して藤沢周平さんの作品には登場しません。

なるほど、私が藤沢周平さんの小説に求めていたことが、何だったのか判った気がしました。普通の人が、もがき苦しむ事で生み出される感動を求めていたのじゃないかな。藤沢周平さんの小説は現実を受け止め、それを結論として納得させる話が多い。能天気ではないが嘆き悲しみむことはない。諦めでもない、完全な達成感でもない、その中間よりも少しだけ下あたり。たまには少しだけ上だったり。そのような庶民の物語が、日本のファンタジー世界である江戸時代・士農工商の世界、適度にデフォルメされているが、現在につながるリアルも持った時代を舞台として、美しく端正な文体で語られます。文章が美しいので、どの頁を開いて読んでも、そこに感動があります。何度も読み返したくなります。藤沢周平さんの作品は所有したくなるのです。

蜩ノ記は、市井の人の物語ではなく、ヒーローな人が全てを解決し去っていく映画シェーンのような側面もある小説で、それは藤沢周平さんの小説とは異なります。しかし、その文体や俳画の如き描写は素晴らしく、藤沢周平さんを彷彿とさせます。本当にハードカバーで買って良かった。

ところで、作者の葉室麟さんですが、麟(りん)と言う発音から最初女性の方かと勘違いしていましたが、直木賞候補常連の大ベテランでした。ちょっと赤面です。

2012年1月15日日曜日

ジョブズの伝記を読み終わって

上下二冊に別れているのは、日本だけだろうか。下巻は成功話であり、面白かったし、また死に至るまでの工程でもあり、痛ましい気持ちにもなりました。学ぶという面では、上巻の失敗に学ぶのが筋だと思うのだけどね。
気づいたことや気になることはあるので、思い出すままに書いてみます。

オープン VS クローズ

ジョブズの「システム」に対する思想は、全てをコントロールするべきだというものだった。生産もマーケティングも、ユーザの経験さえも制御しなければならないと考えています。他者がその世界に進入し、勝手にされることを望まない、それは悪だと、崩壊の兆しだと考えるわけだ。本では、これを「クローズ」と表現しています。その対局に、「オープン」。商品やサービスは提供されたら、それがどう利用されるかは、関知しない、意外な利用も含めて歓迎される思想です。

仕事でも、趣味でもオープンな環境やツール、製品を利用することは多い。オープンなもの無しでは、今の自分はなかった。とても感謝しています。その一方で、iPhoneやMacOSXも、また愛してやまないものであり、もはやiPhone無しの生活は成り立ちません。オープンもクローズも、共に無くてはいけないものです。しかし、エントロピーが高いのはクローズのほうでしょう。油断すれば、クローズなものは、すぐに崩れていくでしょう。完成度も製品としての価値も高いiPhoneは、ある意味奇跡なのだろうか。そして、オープンなAndroidは、だんだん普通、ある意味つまらない方向になるのでしょうね。クローズとオープンの戦いは、全体として(例えばシェアは)オープンの勝ちになるが、個人・企業でダントツの勝利者となる条件は、クローズなのでしょう。

交差点に立つ人

ジョブズが成功した資質として、彼が学際的だったことが指摘されています。専門特化した人は、その分野の上位になることは出来ても、分野を超えた世界の上位に食い込むことは出来ないと言うことでしょう。昔、ある先生からT型人間であれ、と教わりました。I型が専門のみに特化した人、T型は、専門をもちながら、それ以外の分野では広く浅く理解している必要があると言う意味だった。交差点に立つ人は、さらに凄いのか。二つの分野の交わりを発見し、そこに位置すること。つまり、それぞれの分野が専門であり、それぞれの視点と交わりであるがゆえの視点を持つことなのだと理解した。凄まじい。

Next以前とNext以後

Appleに復帰したジョブズは、大人になっただろうか? 経営者として目覚めたのだろうか? 伝記を読むまでは、ジョブズは、失敗を経験し、それを糧として経営者として成長したのだと思っていたのですが、全然違う。ジョブズは何も変わっていない。製品に向いていた情熱が、組織に向いただけ。組織を作品として、理解し、その完成に興味をもっただけだ。手法も性格も、変わっていない。とても、すっきりした。そんなに簡単に人間は豹変できないのだ。むしろ、常に同じ姿勢を貫いたことに驚きと尊敬を感じます。

伝記は難しい

伝記とは、難しい分野だと思った。事実とはなんだろうか。本人も、周囲も真実を言わない。真実だと自分が信じてしまったことしか話せない。作家は事実を書けないのだ。情報を系統だって書くことで、事実かも知れないことを浮き彫りにする作業を行うのだろう。しかし、系統立てることで、意図が加わり、また真実かも知れないことからずれてしまうこともあるのだろう。難しい。

システム業界の業(ごう)

映画業界は、結構明るいのですな。それに比べるとシステム業界の暗くて、ジメジメしていて、つらそうなこと。エンジニアは相変わらず疲弊していく。ジョブズのようなリーダがいると、エンジニアはハイになって、ついには燃え尽きてしまうみたいだ。


マイクロソフトの立ち位置とか、人材とコネクションのこととか、なんか思ったはずだが、忘れた。段々、内容が短くなってきたので、ここで記事は終了。